それにしても暑い、暑い!暑い!!これでは“真夏の夜の夢”もおちおち見られたもんじゃありませんね。そこで今回は夢の代わりに、“遠い夏の思い出”を少し集めてみました。テーマは、「月日のたつのは早いもの。」 ではどうぞ。
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真夏の夜の夢 ― 光陰矢の如し
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① 1981年 兵庫
私は今までの人生でたった一度だけ甲子園球場に足を運んだことがある。1981年夏の甲子園。準々決勝。現横浜ベイスターズの工藤公康投手が完封勝ちした試合。彼はその試合でホームランも打ったはずだ。甲子園がとにかく暑かったことと黒板にチョークで書いたようなスコアボードをはっきり覚えている。
最近新聞のコラムでその工藤のインタビュー記事があった。今年44歳でなお現役続行とはただただ敬服の一言に尽きるのだが、26年前の夏の甲子園も今年の横浜での活躍も全くの同一人物。まるで昨日今日の出来事、時間が止まっているかのように。
② 1970年 大阪
アジアで最初の万博(万国博覧会)は1940年(昭和15年)東京での開催が決まり準備も着々と進んでいた。しかし1938年7月に戦争のため延期(のちに中止)が決定される。それはそうとして、2ヶ月ほど前の新聞のコラムを読んで始めて知ったのだが、その時発売された前売り入場券が30年後の大阪万博で有効な入場券として扱われたのだそうだ。しかしもっと驚いたのは、実際に千何百枚かが使われたということである。きっと30年なんてそんな長い歳月じゃないのだ。
30年の月日を越えてよみがえった入場券 ―― 1970年の夏休み、それを手にして大阪万博に出向いた人は一体どんな想いだったろうか。昭和15年当時前売り入場券を手に夢を見ていた子供が、30年を経て自らの子供とともに大阪に向かったことだろう。昭和15年には万博準備委員かなにかで東奔西走していた方が、ようやく夢がかなったと喜々として昭和45年の万博のゲートをくぐったことだろう。30年前に想いを馳せながら。
③ 1936年 愛知
3年ほど前まで毎年必ず、と言っても5年続けたくらい、釜山に遊びに行っていた。別に彼女がいたからじゃありません。おばあちゃんがいたから。それも実の祖母でもなく私が勝手に「おばあちゃん」と呼んでいただけ。一人で小さなおみやげ屋を経営していて、ふらふらと入っていった私に妙にやさしく接してくれた。昭和20年まで名古屋の女学校に通っていたというからもう80歳にはなるだろう。張という名だが日本では伊東というのだ、と教えてくれた。
そのおばあちゃんが、会うたびに必ず語りだす話があった。毎年夏になると列車に乗って海へ遊びに行ったそうなのだが、その線路脇で近所の人がそれこそ総出で「伊東さんちのお譲ちゃーん!!」と言って手を振ってくれるんだと。そして話の終わりに目を細めて必ずこう言う。「あの人らは今どこにいるんじゃろか。もうみんな死んでしまったかのぉ。」
70年も昔のはずだが、彼女にとってはまるで昨日のことのようにありありと浮かぶ光景なのだろう。70年という月日も人の一生も、あっという間の短い時間なんだなぁ、とつくづく思えてくる。なんせ自分自身振り返ってみると20年や30年前の記憶なんて手が届きそうなくらいすぐそこにあるから。
いくら「遅咲きの人生」とはいえ、悠長に構えていたら短い人生すぐに終わってしまうなぁ~というのが、今年の夏の夜の夢でした・・・ちょっと長くなりましたが。
2007年8月28日火曜日
2007年8月22日水曜日
私が今考えている事
先日、ライターの中島恵さんに私の仕事についてインタビューを受けて、あらためて自分がどうしてここにいるのか、これからどうしたいのかを深く感じ取りました。人から聞かれて言葉にすると自分の頭の中がはっきりする、ということってありますよね。
そこで、そのはっきりした内容を書きとめておくことにしました。
この仕事を始めたきっかけ:
- アメリカで留学したり、働いたり、香港政府で香港人(中国人)と接していると、日本への誤解に満ちていること気がつく。<アメリカの大学の異文化理解という授業で、日本では妻は夫から3歩下がって歩く、とか、日本は物価が高いので、実質的な生活水準はきわめて低い、などと“教わりました。”香港人からは、日本の男性は仕事の効率が悪いから残業ばかりしているくせにさらに飲みに行くので、家庭をまったく顧みない、んだよね?と聞かれました。>
実際にこの仕事をしてみると:
- 日本の良い面を素直に感じ取っている中国人が結構いる事に気がついた。新鮮な驚きだった。<当ブログ『好感度No1の国、日本』参照。>
- そういう人にこそ、日本での活躍の場を与えたい、と思った。
この仕事でやりたいこと:
- 日本の社会や企業風土は独特です。日本人は、主張し過ぎずむしろ謙遜の気持ちで、相手を傷つけないやり方でコミュニケーションをとりますよね。それを感じ取る感性があるかどうかをポイントにして、まずは求職者の人物を見極めたい。
- そういった日本のやり方が良いと感じることの出来る人、それに馴染める人、それが好きになれる人、そういう感性のある人を企業に紹介したい。
- 企業への人材紹介である以上、スキルや給料がマッチするかどうかは当然大事。でも外国人を見る場合は、日本社会という土俵に上がれるかどうか、感性のポイントから人物を選ぶことが先決だと感じている。
- つまり合うか合わないか、相性の問題。<日本人でも、海外に憧れて出て行ったもののドライな人間関係に失望した人はいるでしょう。逆にそれが良くて住み着いている人もいるでしょう。>
- よく外国人の紹介というと、敬語講座とかマナー講座とかを “売り” にすることがあるが、それは本質的なものではないと思う。教えても出来ない人は出来ません。逆に、上記のような人なら当然のようにして身につけています。
将来は:
- 「井上さんの紹介する人なら間違いない。」「グッドジョブクリエーションズの人材なら安心だ。」と言われたい。
以上です。
この気持ちが将来も変わらないことを祈りつつ。(平成19年8月22日)
2007年8月20日月曜日
外国人採用に関する誤解と無理解 ②
さて、前回に続いていわゆる“外国人”に対する我々の誤解と無理解について私の思うことを続けます。
①では、「留学生は卒業したら国に帰るんだろう」という誤解でした。
引き続き--
② 不法滞在も結構いるんじゃないの?
答え:いないとは言いません。でも彼らは表の世界にはあまり出てきません。
この疑問を受けることは①にくらべるとだいぶ少ないですが、疑っている人には何を言っても無駄、という類の疑問です。「御社で紹介する外国人のパスポートが本物かどうか証明できますか?」なんて言われても困ります!不法滞在の外国人が私たちのところへ職業紹介に訪れるとは思いませんし、ましては企業の面接に出向くなんて考えられません。意図的かそうでないかは別にして、不法滞在者になってしまったらひっそりと生きていくしかないと思います。
なお、「不法滞在」という単語から多くの方が抱くイメージは… 密入国、でしょうか?貨物船に紛れ込んで夜陰に乗じて上陸…なんて報道もありますから。
でもこれには注意が必要です。「不法残留」と「密入国」は大違いです。入国管理局のホームページでは「不法残留」という言葉が使われています。不法残留とはビザの期限が切れているのに出国の記録がない人です。彼らはパスポートは持ってますし外国人登録証もあります。ただ“期限切れ”なんです。(彼らを弁護する意図は毛頭ありませんが。)普通は「不法滞在」というと「不法残留」を指すことが多いと思います。ちなみに海外で「不法残留」となっている日本人も多数います。
ところが密入国となると悪どさが別格です。彼らは日本入国当初から確信犯です。パスポートは無いかニセモノ。行き先は確実に夜の世界。犯罪の舞台に顔を出している可能性も高いかもしれません。
どうでしょうか。少なからぬ人々が不法残留と密入国とを混同しているのではないでしょうか。少なくとも、コンビニのレジやレストランで見かける外国人留学生は、密入国ではありませんのでご安心を!
③ 日本語ができなければ商売にならないだろう。
答え:最初は誰でも苦労します。
私の見る限り、四年制大学を卒業する留学生の多く(だいたい8割くらい)は社内コミュニケーションには困らないだけの日本語力を持っています。理系で技術職に就くのであればそれで問題ないでしょう。ただ文系の卒業生ですぐに営業ができるか、となるとちょっと別。もちろん日本人の新卒と同じく最初は研修を受けさせてあげたいですが、それでもお客様の前で話ができるだけの日本語力を持っている学生は4割くらい、といった見当でしょうか。
ちなみに、本当に日本語がうまくて、電話だったら外国人だとわからない~、というレベルの学生もいます。これには本当に驚かされます。
なお、たいていの留学生は日本語能力試験の1級に合格しています。近年では1級でなければ大学に入学できなくなっているようです。ただ、この試験で測る日本語能力と仕事で使う日本語とはやや違うようです。私たちのTOEFL や TOEIC と同じで、いくら点数がよくても使い物にならない、という現象ですね。
一方、JETROが実施しているBJTビジネス日本語能力テストは、「しごとのにほんご」とのサブタイトル通り仕事現場を意識したテストになっていてお薦めです。このテストでJ1以上であれば(最上級はJ1+ )、営業に使える日本語をマスターしている、と考えていいでしょう。
①では、「留学生は卒業したら国に帰るんだろう」という誤解でした。
引き続き--
② 不法滞在も結構いるんじゃないの?
答え:いないとは言いません。でも彼らは表の世界にはあまり出てきません。
この疑問を受けることは①にくらべるとだいぶ少ないですが、疑っている人には何を言っても無駄、という類の疑問です。「御社で紹介する外国人のパスポートが本物かどうか証明できますか?」なんて言われても困ります!不法滞在の外国人が私たちのところへ職業紹介に訪れるとは思いませんし、ましては企業の面接に出向くなんて考えられません。意図的かそうでないかは別にして、不法滞在者になってしまったらひっそりと生きていくしかないと思います。
なお、「不法滞在」という単語から多くの方が抱くイメージは… 密入国、でしょうか?貨物船に紛れ込んで夜陰に乗じて上陸…なんて報道もありますから。
でもこれには注意が必要です。「不法残留」と「密入国」は大違いです。入国管理局のホームページでは「不法残留」という言葉が使われています。不法残留とはビザの期限が切れているのに出国の記録がない人です。彼らはパスポートは持ってますし外国人登録証もあります。ただ“期限切れ”なんです。(彼らを弁護する意図は毛頭ありませんが。)普通は「不法滞在」というと「不法残留」を指すことが多いと思います。ちなみに海外で「不法残留」となっている日本人も多数います。
ところが密入国となると悪どさが別格です。彼らは日本入国当初から確信犯です。パスポートは無いかニセモノ。行き先は確実に夜の世界。犯罪の舞台に顔を出している可能性も高いかもしれません。
どうでしょうか。少なからぬ人々が不法残留と密入国とを混同しているのではないでしょうか。少なくとも、コンビニのレジやレストランで見かける外国人留学生は、密入国ではありませんのでご安心を!
③ 日本語ができなければ商売にならないだろう。
答え:最初は誰でも苦労します。
私の見る限り、四年制大学を卒業する留学生の多く(だいたい8割くらい)は社内コミュニケーションには困らないだけの日本語力を持っています。理系で技術職に就くのであればそれで問題ないでしょう。ただ文系の卒業生ですぐに営業ができるか、となるとちょっと別。もちろん日本人の新卒と同じく最初は研修を受けさせてあげたいですが、それでもお客様の前で話ができるだけの日本語力を持っている学生は4割くらい、といった見当でしょうか。
ちなみに、本当に日本語がうまくて、電話だったら外国人だとわからない~、というレベルの学生もいます。これには本当に驚かされます。
なお、たいていの留学生は日本語能力試験の1級に合格しています。近年では1級でなければ大学に入学できなくなっているようです。ただ、この試験で測る日本語能力と仕事で使う日本語とはやや違うようです。私たちのTOEFL や TOEIC と同じで、いくら点数がよくても使い物にならない、という現象ですね。
一方、JETROが実施しているBJTビジネス日本語能力テストは、「しごとのにほんご」とのサブタイトル通り仕事現場を意識したテストになっていてお薦めです。このテストでJ1以上であれば(最上級はJ1+ )、営業に使える日本語をマスターしている、と考えていいでしょう。
2007年8月14日火曜日
30年越しにかなう夢
確か先月だったが、新聞のコラムを読んでてびっくりした。
東京オリンピックが1940年に開催されるはずだったのは知っていたが、実は同じ時に万博も計画されていて着々と準備が進められていたのだ。晴海や月島という埋立地はそのために造成されたらしい。実際は戦争のために延期されてしてしまう(その後中止)のだがそれはそうとして、その時発売された前売り入場券が30年後の大阪万博で有効な入場券として扱われ、実際に千何百枚かが使われたというのである。さらに2005年の愛知万博でも昭和15年の万博入場券は受け付けられた(実際に使用があったかどうかは不明。)
30年の月日を越えてよみがえった入場券 ―― 1970年の夏、それを手にして大阪万博に出向いた人は一体どんな想いだったろうか。昭和15年当時前売り入場券を手に夢を見ていた子供が、30年を経て自らの子供とともに大阪に向かったことがあるに違いない。昭和15年には万博準備で東奔西走していた役員が、ようやく夢がかなったと喜々として昭和45年の万博のゲートをくぐったことだろう。30年前に想いを馳せながら。
東京オリンピックが1940年に開催されるはずだったのは知っていたが、実は同じ時に万博も計画されていて着々と準備が進められていたのだ。晴海や月島という埋立地はそのために造成されたらしい。実際は戦争のために延期されてしてしまう(その後中止)のだがそれはそうとして、その時発売された前売り入場券が30年後の大阪万博で有効な入場券として扱われ、実際に千何百枚かが使われたというのである。さらに2005年の愛知万博でも昭和15年の万博入場券は受け付けられた(実際に使用があったかどうかは不明。)
30年の月日を越えてよみがえった入場券 ―― 1970年の夏、それを手にして大阪万博に出向いた人は一体どんな想いだったろうか。昭和15年当時前売り入場券を手に夢を見ていた子供が、30年を経て自らの子供とともに大阪に向かったことがあるに違いない。昭和15年には万博準備で東奔西走していた役員が、ようやく夢がかなったと喜々として昭和45年の万博のゲートをくぐったことだろう。30年前に想いを馳せながら。
2007年8月10日金曜日
光陰矢のごとし
7月の日経新聞は、朝刊を手に取ると真っ先にひっくり返して最終面の「私の履歴書」に目が行った。そう、長島茂雄の物語である。実は私自身は長島の現役時代を知らない。だから私にとってのヒーローといえば王貞治だ。でも長島がどれだけ偉大なプレーヤーだったかは知っているつもりで、だからこそ朝一番で必ず読んだ。
その中で第2回目にこんな話が出てくる。長島茂雄の母ちよが、ビー玉を芯にして野球ボールを作るシーンである。
「ビー玉に真綿を巻いたが、柔らかすぎた。次に帯締めの細いひもをグルグル巻いた。これは硬くていい感じだった。ところがなかなか針が通らず、お袋が親指や人差し指を針で刺し、バーッと血が噴出す。それを私がふいてあげた。いまだにあの光景がよみがえる。」「指から血を流しながらボールを作ってくれたお袋の姿は何年たっても忘れない。」
戦後間もなくのころだからもう60年も昔の話だ。それでも長島にとってははっきりと思い出される光景なのだろう。
3年ほど前まで毎年必ず、と言っても5年続けたくらい、釜山に遊びに行っていた。別に彼女がいたからじゃありません。おばあちゃんがいたから。実の祖母でもなく私が勝手に「おばあちゃん」と呼んでいたのだが、一人で小さなおみやげ屋を経営していて、ふらふらと入っていった私に妙にやさしく接してくれた。(たくさん買わされましたけど!)昭和20年まで名古屋の女学校に通っていたというからもう80歳は超えているだろう。張という名だが日本では伊東というのだ、と教えてくれた。
そのおばあちゃんが、会うと必ず語る話がある。毎年夏になると、列車に乗って海へ遊びに行ったんだそうだ。その線路脇で近所の人が総出で「伊東さんちのお譲ちゃーん!!」と言って手を振ってくれたんだと。そして話の最後に目を細めて必ずこう言う。「あの人らは今どこにいるんじゃろか。もうみんな死んでしまったかのぉ。」
きっと70年以上も前のことのはずだが、彼女にとっては大した昔じゃないのだろう。
時の経つのなんて早いものだ。自分の記憶はどんなに頑張ってもせいぜい35年前までだが、それでもはっきりと思い浮かぶシーンはいくつかある。きっと自分が60歳になっても70歳になっても、55年前の記憶、65年前の記憶として同じようにはっきりと浮かぶのだろう。
8月は戦争の話題が豊富で、正直「毎年毎年おなじだよな~」なんて感じなくもないのだが、終戦からたったの62年、日中戦争から数えてもまだ70年。
少なくともその時代を生きた人々からすれば、ほんのすぐそこの手が届くような記憶に違いない。
その中で第2回目にこんな話が出てくる。長島茂雄の母ちよが、ビー玉を芯にして野球ボールを作るシーンである。
「ビー玉に真綿を巻いたが、柔らかすぎた。次に帯締めの細いひもをグルグル巻いた。これは硬くていい感じだった。ところがなかなか針が通らず、お袋が親指や人差し指を針で刺し、バーッと血が噴出す。それを私がふいてあげた。いまだにあの光景がよみがえる。」「指から血を流しながらボールを作ってくれたお袋の姿は何年たっても忘れない。」
戦後間もなくのころだからもう60年も昔の話だ。それでも長島にとってははっきりと思い出される光景なのだろう。
3年ほど前まで毎年必ず、と言っても5年続けたくらい、釜山に遊びに行っていた。別に彼女がいたからじゃありません。おばあちゃんがいたから。実の祖母でもなく私が勝手に「おばあちゃん」と呼んでいたのだが、一人で小さなおみやげ屋を経営していて、ふらふらと入っていった私に妙にやさしく接してくれた。(たくさん買わされましたけど!)昭和20年まで名古屋の女学校に通っていたというからもう80歳は超えているだろう。張という名だが日本では伊東というのだ、と教えてくれた。
そのおばあちゃんが、会うと必ず語る話がある。毎年夏になると、列車に乗って海へ遊びに行ったんだそうだ。その線路脇で近所の人が総出で「伊東さんちのお譲ちゃーん!!」と言って手を振ってくれたんだと。そして話の最後に目を細めて必ずこう言う。「あの人らは今どこにいるんじゃろか。もうみんな死んでしまったかのぉ。」
きっと70年以上も前のことのはずだが、彼女にとっては大した昔じゃないのだろう。
時の経つのなんて早いものだ。自分の記憶はどんなに頑張ってもせいぜい35年前までだが、それでもはっきりと思い浮かぶシーンはいくつかある。きっと自分が60歳になっても70歳になっても、55年前の記憶、65年前の記憶として同じようにはっきりと浮かぶのだろう。
8月は戦争の話題が豊富で、正直「毎年毎年おなじだよな~」なんて感じなくもないのだが、終戦からたったの62年、日中戦争から数えてもまだ70年。
少なくともその時代を生きた人々からすれば、ほんのすぐそこの手が届くような記憶に違いない。
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